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10月20日、蝦夷地鷲の木に上陸後、歳三は間道軍総督となり五稜郭へ向かった。新選組は大鳥圭介総督の下本道を進んだが、歳三には島田魁ら数名の新選組隊士が常に従っていたと言う。箱館・五稜郭を占領後、歳三は額兵隊などを率いて松前へ進軍し松前城(福山城)を陥落させ、残兵を江差まで追撃した。この時、榎本武揚は土方軍を海から援護するため、開陽丸で江差沖へ向かったが、暴風雨に遭い座礁。江差に上陸して
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の沈没していく姿を見守っていた榎本と歳三は、そばにあった松を叩いて嘆き合ったと言われ、今でもその「嘆きの松」が残っている。江差を無事占領した歳三は、一度松前城へ戻り、12月15日榎本が各国領事を招待して催した蝦夷地平定祝賀会に合わせて五稜郭へ凱旋した。その後、幹部を決定する選挙が行われ、榎本を総裁とする蝦夷共和国(五稜郭が本陣)が成立、歳三は幹部として陸軍奉行並となり、箱館市中取締や陸海軍裁判局頭取も兼ねた。箱館の地でも歳三は冷静だったと言う。箱館政府が樹立され、
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らが祝杯を交わしているときも歳三は一人沈黙を保ち、「今は騒ぎ浮かれる時ではない」と言っていたと伝わる。
1月から2月にかけては箱館・五稜郭の整備にあたり、3月には新政府軍襲来の情報が入ったため、歳三は新政府軍の甲鉄艦奪取を目的とした宮古湾海戦に参加、作戦は失敗し多数の死傷者が出るも、歳三は生還する。
明治2年(1869)4月9日、
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に上陸を開始。歳三は、二股口の戦いで新政府軍の進撃に対し徹底防戦する。その戦闘中に新政府軍は鈴の音を鳴らし、包囲したと思わせる行動をとり、自軍が包囲されたと思った土方軍は動揺した。これに対し歳三は「本当に
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しようとするなら、音を隠し気づかれないようにする。」と冷静に状況を判断し、部下を落ち着かせた。また、戦いの合間に歳三は部下達に自ら酒を振舞って廻った。そして「酔って軍律を乱してもらっては困るので皆一杯だけだ」と言ったので、部下は笑って了承したと言う。土方軍が死守していた二股口は連戦連勝。しかし、もう一方の松前口が破られて退路が絶たれる危険が起こったため、やむなく二股口を退却、五稜郭へ帰還した。
そして明治2年(1869)5月11日(旧暦)、新政府軍の箱館総攻撃が開始され、新選組隊士島田魁らが守備していた弁天台場が新政府軍に包囲され孤立したため、歳三は籠城戦を嫌って僅かな兵を率いて出陣。新政府軍艦朝陽が味方の軍艦によって撃沈されたのを見て「この機会を逃すな!」と大喝、箱館一本木関門にて陸軍奉行添役大野右仲に命じて敗走してくる仲間を率いて進軍させ、「我この柵にありて、退く者を斬る!」と発した。歳三は一本木関門を守備し、七重浜より攻めくる新政府軍に応戦、馬上で指揮を執った。その乱戦の中、銃弾に
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を貫かれて落馬、側近が急いで駆けつけた時にはもう絶命していたと言う。敵の銃弾ないしは流れ弾に当たったとするのが通説だが、降伏に頑強に反対する土方を除くために味方の手によって暗殺されたとする説もある[要出典]。歳三の命によって台場方面に進軍していた大野率いる兵士らは一時勢力を盛り返していたが、突然乱れて大野の必死の指揮にも関わらず総崩れとなった。大野がやむを得ず引き返したところ、同じく陸軍奉行添役の安富才助から歳三の戦死を知らされたと言う。歳三の
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は小芝長之助らに引き取られて、他の戦死者と共に五稜郭に埋葬されたとも、別の場所に安置されていたとも言われる。その場所は特定されていない。享年35。
辞世の句は「よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも魂は東(あずま)の君やまもらむ」。 また「たとひ身は蝦夷の島根に朽ちるとも魂は東の君やまもらん」とも伝わる。
墓所は、
東京都日野市石田 石田寺(せきでんじ)
北海道函館市船見町 称名寺(慰霊碑)
福島県会津若松市東山町 天寧寺(慰霊木碑)
東京都北区滝野川 寿徳寺
東京都荒川区南千住 円通寺 ほか
小姓市村鉄之助
歳三は死の直前に小姓を務めていた市村鉄之助に遺髪と写真を渡し、「日野の家族の元に届けてくれ」と命じる。それに対し市村は「私はこの地で討ち死にする覚悟でやってきました。誰か別の者に命じて下さい」と拒否する。それを聞いた歳三は「断るとあらば、今この場で討ち果たす」と鋭い眼光を向けて言い放つ。その歳三の気迫に圧されて市村は首を縦に振った。日野に旅立つとき市村は窓に人影が写っていることに気づく。「誰かは解りませんでしたが、おそらく土方さんだったのだと思います」と語り残している。その後市村は日野宿の佐藤彦五郎の元に無事届けている。
愛刀は太刀 和泉守兼定(いずみのかみかねさだ) 小太刀 堀川国広(ほりかわくにひろ)
幼少時には風呂から上がると、よく裸のまま家の柱で相撲の稽古をしていたと言う。その柱は現在でも残っている。
→土方家の伝承。土方愛著『子孫が語る土方歳三』参照。柱は土方歳三資料館に現存。
甥(佐藤彦五郎の3男・為吉)が庭先で転んで額を切った時にはすぐさま駆け付けて「男の子の向かい傷だ。めでたいめでたい」と笑ってあやしたという。
→佐藤家の伝承。佐藤c著『
無垢フローリング
』参照。
天然理心流道場では歳三は中極意目録までの記録しか現存していない。行商中に学んだ様々な流派のクセが取れなかったようだ。しかし、実戦では滅法強かったと言われている(斬り合いの時、足下の砂を相手にぶつけてひるんだ隙に斬り伏せたり首を絞めて絞殺したりなど、縦横無尽に戦闘をしていたという)。
後の洋装の写真などから、歳三は合理主義者で便利なものは便利と受け取る柔軟さをもっており、舶来の懐中時計なども持っていたという。
隊内の気の置けない仲間には、「自分は、信長の生まれ変わりだろう。」と言ったことがある。
陣中法度、局中法度などの厳しい隊規を考案したとされ、裏切り者やはみ出し者に容赦の無い刃を浴びせた歳三は、鬼の副長と呼ばれ普段は冷酷な人物とされる。しかし、箱館戦争にまで従った新選組隊士中島登によれば、箱館戦争当時には「温和で、母のように慕われていた」という。この頃には若い隊士を度々飲食に連れ歩いたり、相談事に乗ったりするようになったともいわれている。ただしそれも、年齢を経た結果というよりも、自分の死に場所を見つけたという悟りに近い気持ちと、明日にも闘いで命を落とすかも知れない隊士の士気を上げるための、計算の上であったとする説もある。
もともと色白で引き締まった顔立ちをしており(当時としては)長身であった為、京都にて新選組副長として活動していたときなどは、日野の仲間に向けて多数の女性からの恋文をまとめて送って自慢するほどであった。
上洛間もない頃、小島鹿之助へ(一説に近藤道場の弟子たちにとも言われる)宛て大きな荷物が届く。京土産でも送って来たかと開けてみると、彼を慕う芸者・舞妓からの恋文がびっしり詰められており、以下の和歌が手紙に添えられていたという。
報国の心ころわするゝ婦人哉
→小島家の伝承。小島政孝著『新選組余話』参照。
宇都宮の戦いで足を負傷していた歳三は、慶応4年(1868)閏4月頃から7月頃(異説あり)まで、会津若松城下の宿で病床に伏していた。ある日、同じ宿にいた幕臣で文官の望月光蔵が訪ねて来たが、歳三は寝ころんだまま「俺達と共に戦え」と言った。その傲慢な態度にムッときた望月は「自分は文官だから戦う事はできない」と拒否。すると歳三は「じゃあお前は何をしにこんな遠くまで来たんだ。臆病者め」と言い放った。望月も黙っておれず「幸いにもあなた達は宇都宮城を奪ったが、それをすぐに奪われたではないか。再び奪うことはもう難しいだろう。実に惜しいことだ。あなたもまた臆病者と言わざるを得ない」。望月にそう言われた歳三は「うるさい、俺の病床に障る。もう聞きたくない。出て行け」と叫んだため、望月は部屋を去った。この時歳三は怒りのあまり望月に枕を投げつけたそうである。
→望月光蔵著「夢乃うわ言」および望月子孫著『告白の告発』参照。
江戸で定宿としていたのが幕府御用達釜屋。品川宿の中でも大変賑わっていた茶屋で「慶応三年卯十月廿一日登(上)新撰組土方歳三御家族 門人共上下三十一人(休)釜屋半右衛門 九貫三百文」と言う記録が残っている。現在、釜屋の跡地(品川区青物横丁駅)には新撰組の記念碑が建てられている。
和歌や俳諧などを嗜むなど意外と風流人の面もあった。「豊玉発句集」などを自分で書して残すほど書き溜めていた。
公用に 出て行く道や 春の月
三日月の 水の底照る 春の雨
さしむかふ 心は清き 水かゞみ
水音に 添てきゝけり 川千鳥
山門を 見こして見ゆる 春の月
梅の花 一輪咲いても 梅は梅
春の草 五色までは 覚えけり
うくひすや はたきの音も つひやめる
あはら屋に 寝て居てさむし 春の月
しれば迷い しなければ迷わぬ 恋の道 (この句には、丸く線囲みがしてある。囲みの理由については、はっきりしておらず諸説ある。)
しれば迷い しらねば迷ふ 法の道
水の北 山の南や 春の月
行く年の 月日の流れ 蚊帳の外
故郷に向かって 進む 五月雲
ふりながら きゆる雪あり 上巳こそ
横に行 足跡はなし 朝の雪
演じた俳優、声優
昭和40年代には『新選組血風録』や『燃えよ剣』で栗塚旭の好演して以降、国民的な人気を得た。ドラマ『新選組血風録』の製作開始時に隊士服を着た栗塚旭を見た司馬遼太郎が絶賛したというエピソードが知られている。